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2010年12月 4日 (土)

老猫と暮らすということ その4 食器に残ったゴハン

 若い頃から食いしん坊だったガチャ子さん。元気な頃には、ゴハンの後の食器は文字通り「なめたように」きれいなものでした。実際なめてもいましたが。

 けれどもこのところ、様子が変わってきました。もちろん、体調が悪かったり量が多すぎたときにゴハンを残すのは仕方のないことです。そういうこととは別に、食器の中にゴハンが残ることが、多くなってきているのです。

 残るといっても、魚のかけらが三つ四つ。たいした量ではありません。量が多すぎるのかと思ってその分を減らしても、やはり少し残ることが多い。おそらくは、根気が無くなってきたのではないかと思います。最後の方になると、魚が食器の底に散らばって食べにくくなります。若い頃にはそれでも舌を駆使して全てさらっていたのを、今はそこまでする気がなくなっているのでしょう。

 食器の中日本の少し残ったゴハン、この光景には見覚えがあります。

 父の病が重くなっていった頃、しんどそうに食事をする父の茶碗には、食べ終わった後に幾粒かのご飯粒が残っていることがよくありました。

 父の名誉のために申すのならば、父世代の特長でもありましょうが、元気な頃の箸の使いこなしはなかなかに見事でした。特に魚の食べ方のきれいさといったら天下一品。まさに猫またぎ。指を使わずにどうしてあそこまできれいに骨だけになるのかと、子どもの頃には本当に不思議に思っていました。(この器用さは弟には受け継がれましたが、残念なことに私には……。)

 ただ、妙なクセが出ることがありました。空になった茶碗を食卓にもどすときに、箸で茶碗の縁を軽くたたくのです。二回、リズミカルに。外食時にそのクセを目にした記憶はありませんので、自宅での食事の際にだけ出ていたのかもしれません。
 これは明らかにマナー違反。一度、なぜそんなことをするのか尋ねたところ、どうも無意識にしているようでした。いわゆる「職業病」の類だったかという気もします。その後、そのクセの出現率は減りましたが、時折出てしまうようでした。

 話が横にそれましたが、ご飯粒一つ残すことなくきれいに食べていた父の茶碗に、食べ残しとも言えないようなご飯の残りが見られるようになったとき、私は密かに覚悟をしました。

 猫の時間は人の四倍の速さで過ぎていきます。一緒に暮らし始めて一年三ヶ月。でもこの月日はガチャ子さんにとっては五年分にあたるのだと、ご飯の残った食器を見るたびに思うのです。

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